研究活動履歴

 日本における乳がんの基礎的研究は、1960年代までほとんど行われていず、手術に関する臨床的なものが多かった。そのため先行する欧米に追随していたといえる。学ぶべき所は学び、さらに研究の実績を伸ばすことに専念した時代であった。1970年代に入り、生化学的な研究が大いに発展し飛躍を遂げ、薬物療法の発展も相まって乳癌治療に新風を吹き込んだ。この風潮は日本乳癌学会の創立をもたらした。

目次

創立23年を回顧して

 第1回日本乳癌学会総会が、1993年9月3日、国立教育会館で開かれた際、会長講演として私は(異例ではあるが)‟日本乳がん学会創立とその使命“を取り上げさせてもらった。その中で、以下のように述べた。それまで、年2回開かれていた従来の乳がん研究会では、ひとりの発表時間は1~3分、演題は毎回ひとつに絞られ、指定された数十題の同じテーマでの発表が繰り返される、というやり方がとられていた。これはひとつの結論を得る方法としては良いかも知れないが、学問の進歩のためには全く不十分であった。そこで学会の目標として、
 (1) 新しく自由な発表
 (2) 充分な討論
 (3) 基礎と臨床のかけ橋(Translational Research)
 (4) 国際的に通用するレベル
 (5) 外国学会との連絡・交流
を挙げた。これらは、多くの歴代会長の努力によって、かなり実現してきたのは喜ばしいことである。
 一方、評議員の選挙は、当初6名連記で、各領域にまたがることも可、とした。若い研究者が選ばれやすいだろうと思って決めたのだが、同じ筆跡の6名連記の票が、100枚以上まとめて送りつけられる実状を見て、これでは駄目だと痛感。評議委員会で改めて欲しいと発言したが、評議委員会での投票の結果51対49で否決され、今日まで続いている。この投票を行ったのは、この選挙法で選出された評議員であった。改革すべきだと思う。
 当時、乳腺を専門とする教授は皆無であり、多くは、一般外科教授や病理の教授が取り仕切っていた。現在、乳腺はマイナーな分野からメジャーな分野(minor→major)に変わってきているが、やはり“木を見て森を見ず”ではなくて、基礎医学を含めて、医学全般の知識を持って論じて欲しい、と思う。今や乳がんは各領域にわたる広い智識と理解を持ち、対処すべきテーマになっていると思う。
 理事会に総務部をおいて、これらのことを総括するべきと思ったが、一部の理事の反対に合って実現しなかった。しかしいつの間にか理事長制度が新設され、現在に至っている。 事務局は当初2~3年、がん研有明病院にお世話になる予定であったが、これが長くつづき、今回やっと東京・日本橋に移転が実現した。今後の新たなる発展と活躍を期待したい。
 第一回日本乳癌学会会長であった私は、当初、若手乳がん研究者に道を開くべきだと考え、第一線から身を引く姿勢で、今まで沈黙を保った。しかし、設立当時の考えや行動を知って欲しいという願望から、ここに再び筆をとった。
 第一回総会の講演でも取り上げたが、タキサン(Taxene)、アロマターゼ阻害剤(Aromatase Inhibitor)、ハーセプチン(herceptin)等が、今日の乳がん治療の中心になり、しかも長期間の使用効果が見られるようになった。5-FU系薬剤は、単独での効果は強くないが、他の抗がん剤との併用によって、長期間の効果を発揮する。私が勤務していた診療所では、極めて長期治療に効果を挙げた例をかなり見出した。タキサン(Taxene)系薬剤も、長期間、副作用も少なく投与できることが分かってきた。
 乳がんの治療においては、多数の症例数による統計的処理が行われており、これは治療上大きな参考になる。診療所で、個々の患者さんを丁寧に、しかも永続して診療をつづけた結果、乳がんは個人差が特に大きく、それぞれにふさわしい治療(外科的治療を含む)を行うべきであり、そのためには常に患者さんたちに直接、接するべきであると、特に思うようになった。それも患者さんの家族や社会的背景を含めてである。最近では、私の個人的経験として、再発患者さんで、永久治癒したとみられる人が、10人を超えるようになった。何十年も長く患者さんを診療しつづけた結果かも知れないと思う。
 しかし科学の道に勤しんだ者にとって、深い反省も必要であることを銘記しなければならない。
 最近の治療成績から、私の目標である“乳がん死ゼロの日”が始まったと思うようになった。
 今後は更に優れた新しい治療法や予防法が見出されることを心から期待したい。                                (2014年11月)

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手術万能の時代から4Dスタイルへ

 1961年、阪大微研大学院で芝茂教授からいただいたテーマは癌の悪液質に関するホルモンのかかわりを解明することであった。どちらも未解決の難題である“癌とホルモン”が私に与えられた使命であった。これはのちにこの関連性の最たるものである乳癌研究へと移っていくことになる。微研で始めた乳癌のホルモン研究は、多くの人々の興味を呼び起こし、その後各地で研究が行われるようになり、治療に関しても多くの成果が発表されるようになった。その成果は間もなく世界的レベルに達した。まさに日本における乳癌研究と診療の夜明けであった。
 日本の乳癌研究は各地の大学や研究所を中心に行われていたが、研究活動を統一的にまとめる方向で、乳癌研究会が設立された(1964)。そのあと年2回1992年までに計63回、研究会は繰り返し行われた。研究会におけるテーマは、主に形態学的なものであり病理所見を中心として固めてゆく方針であった。これはこれで一定の効果すなわち統一的見解をまとめる効果はあった。当時乳癌に関して既に欧米で行われていた機能的なものの見方、いいかえれば生化学的あるいは内分泌学的な見方等はわが国ではあまり行われていなかった。そのことに興味を抱いた多くの若手を中心とした医師たちがそれを取り込み始めていた。また抗がん剤による化学療法も進展し始めた。その一つが国産のマイトマイシンCであり、またその癌細胞抑制の作用機作は日本において初めて微研外科で解明された。その頃、乳癌診療はほとんど外科医の取り扱う領域であり、その頂点は外科教授であった。当時乳癌を専門とす る外科教授はほとんどなく、外科医であれば比較的容易に取り扱える領域であった。
 1975年5月、東京都立駒込病院が、癌と感染症専門病院として再発足することになり、 全国から志を持った各領域の医師たちが参集してきた。私も当時、阪大第2外科教授であった神前五郎先生の推薦により、外科医長として赴任することになった。当初は駒込病院副院長であった伊藤一二先生(阪大微研外科ー国立がんセンター外科部長)の関係で、大腸癌の主任として任命されたが、乳癌の仕事も同時に行える立場だった。
 大腸癌、乳癌ともに実験的研究(ラット使用)も行える環境であり、非常に恵まれたポジシヨンであったといえる。新設の都立駒込病院には基礎的研究を受け入れる体制が整っていた。
 そのころ、臨床では乳癌に関しては極限の手術まで行われていた。乳房のみならず周辺臓器まで合併切除が行われ、生存率の向上が図られたがよい成績を上げることはできなかった.内分泌学的な手術として、卵巣摘除のみならず副腎摘除、下垂体前葉摘除までおこなわれていて多少の成果は上がっていた。これに関しては、ノーベル賞受賞者HugginsへのJensenのコメント(外科的内分泌療法がもたらす成果は認めるが,それに付随する維持療法やQuolity of life「生活の質」の問題)が、ERの知見ともども、更なる乳癌ホルモン療法の革命を起こす礎となったと思われる(Endgenous Factors Influencing Host-Tumor Balance。Ed.by Wissler ,Dao and Wood 1967から). ERの発見はのちに、分子標的治療薬の開発や、遺伝子関連の癌治療の発展に多大の影響を齎した。
 驚いたことに1975年当時、東京では進行乳癌に対する治療法とし抗がん剤を使用する医師は皆無で、手術万能の時代が続いていた!。阪大微研外科に在籍していたおかげで抗癌化学療法はたたきこまれていたので駒込病院でさっそく取り入れさせてもらった。これがanthracyclin大量療法のきっかけに繋がった。
 5-Fu系薬剤も多く開発され世界的に使用されるようになった。多くの抗がん剤は全身投与であったが時には局所投与が行われた。しかしその奏効率は20%程度であり、治癒率は殆どゼロであり途中でおわるのが殆どであった。大腸癌の5-Fu系薬剤による抗がん剤療法の開始も駒込病院で始まった。                              
 今日でも汎用されているAC〈アドレアマイシン+エンドキサン〉療法は70%の良好な奏効率を示したが延命を得ることはできなかった。しかし突破口を見出すことができたのは大きな収穫であった。
 小さい日本の、その中の大阪という街で医学教育を受けた私は、昭和35年医学部卒業後インターン(一年)の修練を終え、更に大学院(四年;テーマ:癌とホルモン)の学生時代を過ごした後、副手(無給)になって医業を正式に始めた、恵まれていたというか、この苦しい時期に、米国癌研究所(RPMI,NY)のcancer scientst に採用され年俸も米国から支給された。当時は米国の人々からは東方の国日本から貧しい医師が勉強するためにやってきたと、むしろ歓迎されていたと思う。そのころの米国は、薔薇とwine の時代で人々は寛容の精神に満ち溢れていた。一方では黒人差別の問題が社会に浮上し運動が行われるようになった.さらにKing 牧師の殺害、Kennedy司法長官の殺害、人類初の月面着陸 ベトナム戦争の泥沼化等、私はこれらの劇的な場面を目のあたりにした。祖国日本では安保闘争のさ中、国会議事堂前のデモ騒ぎ、樺美智子さんの死、後に続く三島由紀夫の割腹自殺、など、騒然とした報道が次々と伝えられた。日本国内では学問の研究どころではなかつたのだ。地球の反対側でのこの経験は、私の人生観を変えてしまった。Dao先生からのさらに残って研究を続行してはというお誘いを、日本でやりたいことがあるからと断って、私は帰国することになった。
 1969年12月末阪大微研外科医局員の出迎えを伊丹空港で受け故郷へ3年ぶりに帰ることができた。阪大微研病院は吹田の千里丘陵(のちの大阪万博に隣接)に新設されており、医学部やほかの学部と地理的に離れており、大学紛争の影響は比較的に少なかった。新しい微研病院は私には珍しく、今浦島の心境であった。
 それでも医局員達は研究活動を一切やっていず、デモに参加する毎日であった。ただ病院は正常に機能していた。それから数年の間、学会は開かれてはいたが、私の場合、3年間の海外研究生活で蓄積された成果を発表することで材料に事欠かなかった。
 やがて紛争は沈静に向かい、研究が再開し元の微研生活が戻ってきた。
 そのころ始めたER(estrogen receptor)の測定法の完成が最大の目的であった。それは人体のホルモン環境の詳細を詳しく知ることにも役立ち研究の進展に関わるものであった。 
 米国で習得したホルモンに関する知見は確かに日本の乳癌研究に新風を吹き込んだ。
 1980年代になり全国各地の若手乳癌研究者から声が上がり、新しい乳癌研究の在り方を求める風潮が高まってきた。私の関与した乳癌懇話会はその有力なエネルギー源の役割を果たしてくれた(冨永健編;忘れ得ぬ患者さん達へ-乳癌と戦う若き医師たちの手記―)平成元年、2年。その懇話会に出席した若き医師たちが経験した貴重な症例が前記の冊子の中に記されている。現在の日本乳癌学会の発展過程で中心的役割を果たして来た人たちが多く含まれていると同時に、その後各地大学に新設された乳腺外科教授に就任した医師も多い。
 このような雰囲気の中、当時九州癌センター野村やすを、大阪成人病センター小山博記、大分癌センター中村泰也ら各部長と私が、時の乳癌研究会会長に、日本乳癌学会の設立について提言するという機会があった。確かに当時の趨勢として多くの人々の賛同を得られたように思う。やがて日本乳癌学会設立準備委員会が設置され、私もそれに参加することになった。そして1992年日本乳癌学会が設立され、選挙が施行され評議員の選出、会長、副会長の選挙が行われた。
 第一回日本乳癌学会(初代会長 冨永 健)は1993年9月3日、4日国立教育会館で開催された。
 駒込時代で特記すべきことに、乳癌と確定診断した場合、本人に100%病名を告知することをはじめたことである。私も初めは先輩にならって告知していなかった。しかしやっていることは誰が見ても癌の治療であり、隠しおおせることではなかった。それで100%告知に踏み切った。当時、すべての患者さん本人に癌であることを告知する医師はいなかった。その告知の現状を知って、心理的な面で興味を持ち私の外来診察の日に、廊下で待つ、たくさんの私の乳癌手術患者さんの中に入って、患者さんご本人に、いろいろ質問を行っている医師がいた。(下妻医員―のちの立命館大教授であった)。その結果、すべての患者さんは告知を受け入れてくれたが、4%の患者さんは自分の家族が乳癌になった場合、本人には告知してほしくないという結果であった。その成績を学会に発表したところ、東京都は無断で公表したとclaimをつけてきた。現在豊洲移転などでも問題となっているのと全く同じで、当時から変わらない体質を表していて興味深い。当時新聞紙上にも掲載されたが、この干渉問題が話題になったものである。
 完全な朝を迎えることが、そんなに遠くないことを信じて、仕事を続けたい。 
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  • 乳がん研究と診療の夜明け 2017年1月改定

     乳癌診療に長年関わっていて、最も強い印象を受けたのは、この疾患が如何に多様な性格を持ち、治療方法一つをとっても如何に多彩な方法がとられてきたかである。半世紀以上これらの発展の歴史を目の当たりにしてきた私にとって、まことに感慨深いものがある。乳癌診療に長年関わっていて、最も強い印象を受けたのは、この疾患が如何に多様な性格を持ち、治療方法一つをとっても如何に多彩な方法がとられてきたかである。半世紀以上これらの発展の歴史を目の当たりにしてきた私にとって、まことに感慨深いものがある。
     かつて日米乳がん合同会議において、日米乳がんの同一手術後の生存率を、ステージ(STAGE 病気の進行度)別に比較発表したことがあるが、日本人の成績が圧倒的に良いことを知ったアメリカの研究者から、これは「別の違う病気(DIFFERENT DISIESE)」ではないか、と論評されたことがある。当時は単に人種差としか理解されていなかった。近年に至り遺伝子学的分類が明らかにされ、ようやくその原因が解明の緒に就いたことを知った。ER(Estrogen Receptor、エストロゲンレセプター、ホルモン受容体)、PgR(Progesteron Receptor、プロゲステロンレセプター、ホルモン受容体)、Her-2(ハーツー、Her2陽性細胞はがん細胞の増殖スピードが速く、転移しやすいという特徴がある、ハーセプチンが有効)などの存在は、その後治療法の選択に多大の貢献をしてくれた。もちろん、最初の乳癌診断を確定時に、この情報を大いに利用して、乳がんの性格を全体的に把握することは当然であるが、現実には、これが実施されているとは限らない。乳がんにはさらに検討すべき項目が多くある。
     こういう時代の中で、2016年の日本乳癌学会総会のテーマは、『個別化医療を求めて』であった。世界的に見て無作為比較試験(CONTROLLED、 RANDOMIZED TRIAL))が全盛の中で、卓見であると思う。乳がんの治療は複雑であり、組織学的、生化学的、遺伝子学的、代謝学的、年齢的等多彩な面を持っており、実に興味深い。それらを検討して、総合的な立場から判断を下さねばならない。一方抗がん剤等の使用に当たってはその副作用を検討しなければならない。副作用が出たからといって抗がん力が低いわけではない。副作用はかなり個人差があることが臨床的にわかっている。副作用が出るのは、投与量、投与日、投与期間などが適当でないことが多い。まずその使用方法が適当かどうかを検討すべきである。これは長期間検討しなければわからないことであり、鋭い観察力が必要である。過去のデータで、投与を一時諦めていた抗がん剤が、投与法の変更によりよみがえった事実は、複数見られる。厚労省が欧米のデータを重視して決めた投与法より、国内で優れた投与法が開発された薬剤も少なくない。その意味で厚労省がスタートは決めるにしても、そのあとの最も有効な投与法の開発は、臨床家の働きにかかっている。
     副作用が全く出ていない患者さんも時に見られる。それも長期にわたる例がある。そういう例が見出されたおかげで大変な有効例が生み出された。抗がん剤を長期投与することが可能になった結果でもあった。さらに複数の抗がん剤を組み合わせることによる相乗効果が期待できる。多くの経験の積み重ねによって新しい発想の治療法の開発が行われるよう望みたい。
     新しく開発された分子標的治療薬には有用なものも見られ、併用でも更なる期待が持てるが、途方も無く高価なものが多い。国民医療費を強く圧迫している。開発業者は心してほしい。 

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    乳がん診療に見られる個別化治療の波

     手術療法
     乳がんに対する治療法はおおよそ百年の実証と経験を経て大きく変わりより良い方法が見出されてきた。外科的治療は単純切除⇒定形切除⇒拡大切除⇒縮小切除(部分切除)の経過をたどり、遂には薬物療法だけで癌が完全消失し手術が不必要となった症例もある。
     拡大手術については忘れることのできない事実がある。当時都立駒込病院は、STAGE4に属する進行乳癌の患者さんが数多く入院してくる環境にあった。これは当時、抗がん化学療法を進んで行っている病院は少なく、そのような手術不能と思われる患者さんが抗がん化学治療も進んで行っていた駒込病院に多く来院するようになったためと思われる。
     定型手術(ハルステッドの手術)が最大の手術であった時代に、それ以上の拡大手術を行う施設はあるにはあったが、その臨床成績は芳しくなく、むしろ行われなくなる趨勢にあった。そんな環境のもと、抗がん剤投与の限界も見られることから、私は完全切除が見込まれる症例について、それが物理的に切除できるものであれば、他に方法がない場合、何とか助ける手術法はないものかと考えていた。
     その患者さんは乳癌が局所で進行し大胸筋のみならず胸壁に浸潤していたが、他の遠隔転移がなく、修復のことを考えなければ、外科医としては切除可能な状態であった。
     そのような状況の中で、希望を与えてもらった医師がいた。当時駒込病院で形成外科部長であった坂東正士博士である。坂東先生に自分の考えを説明し、可能性を相談したのだ。驚いたことに、その帰ってきた返事は「癌を完全に切除してください。後の修復は考えてやりますから」というものであった。そこで患者さんに外科的並びに形成外科的な説明を、それぞれ時間をかけて詳しくおこない、了解を得た。胸壁を修復したうえで有茎皮膚弁(血管が着いたままの組織、血管吻合が必須)を持ってくる大手術であったが、見事に成功した。うれしいことに、20年以上経過した現在も元気に生活を送っている。その後も何例か同様の手術を経験したが、最後の一例は私のその後に在籍した昭和大学豊洲病院乳腺センターでの症例で、この時も、坂東先生にお願いして助けてもらった。その時手術助手を先生のご息女の坂東裕子先生(当時駒込病院乳腺外科、現在筑波大学)が務められた。
    ホルモン療法
     内分泌(ホルモン)療法は乳癌で特別な効果を示し、一世紀以上前から行われてきた。ホルモン療法のために外科的手術をする外科的内分泌療法を経て、数々の内科的療法が編み出され今日に至った。乳癌の遺伝子的パターンの分類によるルミナ-ルAタイプ(Luminal A type ホルモン受容体陽性、Her2お陰性で、増殖力が弱いタイプ)では内分泌療法がよく反応し予後も良好である。注目すべきは個人による内分泌環境の相違である。特に女性は月経の有無とその状態に大きく影響される。そのような基礎的変化がある上に、乳癌の発生―増殖―転移と、その様相は時間とともに変化する。その治療には極めてきめの細かい配慮が必要である。
     これまでは閉経前後で治療法を二大大別するぐらいであったのが、最近、より分割されるようになった。例えば閉経前では20代、30代、40代、50代で対応する内分泌療法は考え方も異なる。20~40代では妊娠、出産、授乳を考えに加えねばならない。これは人類にとっても大きな問題である。またがんである以上、妊婦の場合は女性本人や胎児の生死に関わる事柄でもある
     さらにそれを複雑にしているのは、乳房が両側にあることである。一方が癌になった場合、他方がどうなるかフォローアップ(follow up、追跡、検査) のとき注意を要する。両側それぞれ独自の原発癌を発生する可能性も高いと考えられるので予防法も必要である。まして乳房温存術後の残存乳房の状態のfollowも大切である。
     抗癌化学療法においてもいろいろな薬剤が使用されるようになった。アドレアマイシン+エンドキサン(AE一般名はアドレアマイシン+シクロフォスファミド=AC)の時代から続いてタキサン類を用いた治療が最も盛んに行われるようになった。 最近は術前からホルモン剤をはじめ、分子標的治療剤を含む薬剤が使用されることもあり、薬剤だけでも完全治癒(CR=complete recovery)が見られるようになったが、決定的なことを言う為には長年の経過観察を要する。多くの場合薬剤の短期投与が多いが、フォローの期間も限られていることも多い。専門病院であっても長期にわたって組織的に行えるところはあまり見られない。乳癌の特性上このようなことは今後の課題である。最近分子標的治療剤としてトラスツズマブ(一般名はハーセプチン)等がHer2陽性乳癌に用いられ、優れた効果が見られている。長期投与も行われ成果を上げている。最近の報告で分子標的薬剤を複数併用しそれにタキサン類を加えて再発乳癌を完全治癒させた成績があり、癌の概念を覆させるような出来事である。更なる検討は必要である。 
     平均寿命が延び元気な人も多く見られるようになった現在、少なくとも癌治療後の追跡も、より長く行う必要性に迫られているようだ。

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    故神前五郎先生を追悼して

     敬愛する先輩であり恩師である神前五郎先生が亡くなられた(2015.3.22)。 心より哀悼の意を捧げたい。
     先生との出会いは、私が阪大医学部学生の時、教室で血液学の講義(第二外科助教授、久留 勝教授:後の国立がんセンター初代総長)を受けた時であると記憶している。
     私が阪大微生物研究所付属病院外科に入局して間もなく、サンデー毎日に山崎豊子の「白い巨塔」の連載が始まった。そこに登場した主人公が財前五郎教授だった。名前は“神前五郎”にヒントを得たことは明白だったが、人物描写は全く異なった性格のものだった。山崎豊子はそのことが判っていたからこそ安心して名前をつけたのだろう。他の登場人物は名前こそ違うが、すぐどの医師だと判る役付であった。私達は次号ではどの科のどの先生が登場するのだろうと噂しあったものである。
     先生とは直接の接触はなかったが、私が3年間のバッファローの米国癌研究所(RPMI)での勤務を終え、学園紛争さ中の日本に帰って来た時、医局員達は連日の闘争に明け暮れ、研究も何も出来ない中で、空しい日々を送っていた。その後ようやく研究を開始出来るようになったある日、予想もしない話が飛び込んで来た。それは当時教室内の事情から自分の将来の方針を決めることになる一大事であった。
     神前先生からの電話で、今度東京都立駒込病院が癌専門病院として発足するので参加してはとのお話であった。他教室の私に声をかけて頂いたことは私にとって大変名誉であり魅力的な話であった。3日間で結論を下し5月1日の開院日に間に合うよう上京したことを昨日のように思い出す。私にとってその後の仕事の方向を決定する極めて重要なきっかけとなったことは間違えない。この背景には当時国立がんセンター伊藤一二外科部長(後に駒込病院副院長)との相談があったことを後日知った。伊藤先生との関係で大腸癌の主任をやりながら自分の生涯の仕事である乳癌の研究治療も続けることが出来た。一番ありがたかったのは駒込病院内で基礎研究を行える研究室を8部屋も与えられ、膨大な開設費を自由に使えたことである。これも神前先生に配慮して頂いたお蔭である。都立駒込病院外科は全国から参加した10大学からの22人の精鋭の喧々諤々の外科論争から始まり、それなりの成果をあげ得たと思う。当時西と東の学問的考察にはかなりの差があった。
     1983年同僚の東北大出の医師から初代駒込病院松永院長(東北大→弘前大教授→)からのニュースとして、阪大で仕事を終えた神前教授が駒込病院の院長として着任されるとの話を聞いた。駒込病院ではたった一人の阪大出身者であった私は突然のことでびっくりした。医局員100人以上を擁する阪大二外科から私1人しか後輩のいない駒込病院外科では大恐慌が予想されたからである。事実受け入れた時の慌しかった日々を思い出す。先生は1984年駒込病院長に就任された。
     神前先生は良く駒込病院全体は勿論、外科を統括されたが、驚いたことに研究も始められた。私の専門でない免疫学の基礎的なものであった。乳癌についても新しい外科療法を試みられた。先生の前向きな姿勢に私はすごく啓蒙された。先生が消化器のみでなく乳癌についても造詣が深いことを知った。中でも感銘を受けたのは免疫研究については元学会会長であった先生が癌学会総会で駒込病院で行った仕事を一般演題として口頭で発表されたことだ。司会者が取扱に苦慮している様が見受けられたのも懐かしい思い出である。
     当時慶応の阿部令彦教授に助けて頂いた日本乳癌学会の設立に際し推薦状を神前先生に書いて頂いた事を鮮明に思い出す。また先生が発表文は事実を十分検討した上で節度をもって書くことだと言われたのは大きな教訓である。亡くなる前の最後の論文では、私達が日本と欧米の乳癌に差があることに気づいて、データ化しようと試みた日本独自の比較試験を、かつてK医師の少数かつ不十分な自己データや欧米論文だけで、“がんもどき論争”や“癌早期発見は不必要”とする論調に反論を加えられた事は記憶に新しい。当時、ある大新聞や雑誌の記事によって日本の乳癌温存手術の科学的立証を妨げられ、数年遅れてしまった我が日本の乳癌医にとって溜飲の下がる思いであった。間違った報道を訂正しないこの大新聞は、最近他の記事でも糾弾されたのは周知の事実である。
     一方駒込病院在任中に、米国で乳癌内分泌療法で知られるRPMIのDao先生に会って頂き、又、中国北京で先生が消化器癌、私は乳癌について講演をしたこともあった。中国各地から3日間かけて鉄道の旅をし、2時間の話を聞いて又3日間かけて帰って行った中国人医師が多くいたことも懐かしい。その後訪れた寒山寺で転倒され、救急処置を行い大事に至らなかったことも思い出での一駒である。お供した北京では当時姉妹病院であった中日友好病院で中国人医師の日本留学決定の大命を果たしたこともあった。
     駒込のお宅に伺い古い由緒あるワインを頂きながら、ライン河沿いのあの村の斜面で良いワインが出来た等話は尽きなかった。
     神前先生の話は尽きる事はなく東京での生活は極めて感慨深いものであった。                                  黙祷

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    乳癌研究の畏友 中村泰也先生を惜しむ

     大好きな山で、人生の最後を迎えられては、先生の本望ではなかっただろうか。本格的登山家であった先生と会うときは、乳癌研究の話と山の話題でにぎわったものである。インドでの国際学会が、ペストの流行で中止になり、その帰途企画していた中村先生のガイドによるヒマラヤ行きは中止になった。私はこれで生涯ヒマラヤを見る機会を永遠に失ってしまった。1995年6月11日のことである。その3か月前には、先生の主催する“第10回大分乳癌のつどい”で元気に司会をされたばかりであった。“大分乳癌の集い”は先生が10年前に始められ、大分県の乳癌診療をおおいに発展させた会である。私もお誘いを受け第2回の特別講演を行い、その後は毎回希望して一般演題を発表させてもらった。先生は乳癌学会の必要性を,当時の乳癌研究会会長に進言しに行った4人の中の一人であった。
     一方、毎年私たち数人の志を同じくする、各地に散らばって活動を続けている仲間の医師たちを由布岳の中腹にある中村家の山荘に招いて、大分乳癌サミット(中村先生提唱)を開催された。あの当時の熱気あふれる、夜を徹しての討論を思い出す。
     世界で当時始まっていた乳癌に対する乳房温存療法の実証を、日本人でも実証しようとして企画した我々の臨床試験は、それを妨害したK医師とそれを助長したA大新聞により、不成功に終わった。そのため我が国の温存療法の実施は数年遅れる結果となった。そこで形を変えて再度実施した乳房温存療法の成績を発表したが、その発表者は中村先生であった。苦難の時代を乗り越えた原動力の一人であった。

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    切らない外科医

     外科医は患部の切除や、化膿部分の切開排膿などを目的としてメスを使用する。外科医を志した以上メスをふるいたい。私の父は外科医だったので、子供のころから手術が施行される環境の中で育った。決断を迫られるときの迫力ある場面にも遭遇した。それだけに責任の重大さも感じたように思う。昔のことではあるが一瞬で終わる状況の場合、局所麻酔もしなかった。痛かったろうと思う。子供である私も何度も同じ処置を受けたのを思い出す。治るのも早く、結果として人々に感謝された。確かに治癒するまでの時間も、費用も少なくて済んだからだ。費用の払えない村人は、大根など野菜を持ってきたようだ。おかげであまり裕福でない開業医だったように思う。人々の評判は,切る先生、しかし治るのも早い先生と、 むしろ好感を持って迎えられていた。                           
     私も外科医になって手術の極限まで挑み、限界を知った。それ以来メスを使う前に、充分な検討を行い、手術の方針を説明するようになった。それ以来、むしろ切らない外科医だと言うことで評判が立ち、それを期待して受診する患者さん達が増えたのも事実である。駒込時代の話である。乳がんに対する治療法で、手術ほど効果的なものは今もない。早期であれば95%以上の症例は完全治癒するが100%ではない。一方、手術に100%とってかわる治療法はない。各専門別の乳癌医がみとめるところである。それだけに外科医の使命は重大である。心してほしい。わが国の場合、この傾向は特に顕著である。乳がんには遺伝的特性もあり考慮の必要もある。メスの絶大な効果を知り、また限界も知った。従って決断は常に必要である。有効な薬剤もすでにある。しかしどこまで有効かを、よく認識することも重要である。さらに全体を見て総合判断することはさらに重要である。何よりも優先するのは、癌の外科的手術を行うに際しての心構えである。ある程度効果のある抗がん剤を、以前は治癒的切除を終えた症例に投与する補助化学療法にも使われていたが、その多くは2年投与などで、仮にもし見えない癌が遺残している場合には、極めて不十分な投与量並びに期間であった。当時はごく普通に行われていたことだ。有効性はあっても低く、不十分と云えた。それだけに手術の際の見極めと実行は最重要であった。今考えれば、このような補助療法は気休めに近かったと思う。それぞれの治療法の効果と限界を知ったうえで、その症例に対した最も効果的な方法を選ぶべきと思う。  

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    術後診療について 2017年8月改定

     術後の診療が必要なことは言うまでもない。片方乳房にがんが発生して治療を受け、完全治癒と判定されても、もう一方の乳房があり、すでに治療を受けた側の乳房が乳房温存療法であれば、いずれもハイリスク群であることに変わりはない。したがって、注意深い診察の継続は必須であり、期限はない。30年以上の術後継続診療の結果で分かったことである。                           
     特にホルモン療法の施行期間、ホルモン剤(タモキシフェン及びその類似物質、LHRHanalogue,アロマターゼ阻害剤等)の変更などについては個人それぞれの内分泌学状況によって大きく変わる。従って簡単に片付けられる問題ではない。さらなる検討が必要である。  

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